閉じた空間から誰かを愛するということ

わたしたちは、それぞれ孤立しながら言葉の世界で戯れている。どういうことだろうか。なぜわたしたちは孤立してしまったのだろうか。そして言葉の世界で戯れているとはどういうことなのだろうか。このことについて「よむ」という言葉の移り変わりから考えてみたい。


「よむ」という言葉の意味は、音読から黙読へと変化した。以前は、声に出して人に聞かせるものを意味していたが、今は一人で黙って読むものに変わったのだ。これは、人間が集団的存在から孤独な存在へと移り変わっていった歴史と対応している。こうして、人々は孤立を深めていく。


また、「よむ」という行為の対象は、自然現象から人為的な文字へと変化した。その結果、「よむ」という行為は大衆化し、その半面文字が神聖化していった。ここから文字は読めるが現実を理解しない人たちあらわれる。そしてついには、現実から遊離した文字が氾濫するようになるのである。


このようにして、私たちは、孤立し、現実から遊離した言葉と戯れるようになった。しかし、そこには他者がいない。だから、人間は無気力になる。なぜなら、何かを欲しがる他者がいなければ人は欲望を持てないからだ。他者の欲望を欲望する人間は他者なくして欲望を持ち得ないということだ。


そして、無気力になった人間の思考は死へ向かう。死に至るまでの生は、もはや気が遠くなるような長さの刑期となる。その先には死しかないのか?そうではないはずだ。そしてわたしたちは何かになることができる。だって、何かになるということは、誰かを愛するということだろう?