魔法少女まどか☆マギカ ニコ生プラネッツ(前半)


「またループかよ・・・」『まど☆マギ』を見たときの率直な感想である。ループものは『時をかける少女』ですでに頂点に達しており、これ以上の作品はもう出ないと思っていたし、ハルヒエンドレスエイトや他のライトノベルなどでも見られる使い古された手法であったのでいささかうんざりしていたのである。


本作品は、ラストへ向けて徐々にテンションを高めていくあの古典音楽、ラヴェルの「ボレロ」のような構成になっておりその結末のもたらすカタルシスには素晴らしいモノがある。だが、不可解な点も多い。キュウベエとは何なのか、本当のラストにおきたほむらの変化が何を意味しているのか、そしてこの作品は全体として今の時代の何を繁栄しているのか。これらの疑問を解消してくれることを期待して、批評家である宇野常宏氏が放送しているニコ生プラネッツを視聴してみた。


冒頭において、宇野氏は、本作品が「ゼロ年代アニメの総決算」であるとの理解に同意を示す。さらに「セカイ系」「ゲーム的リアリズム」「バトルロワイヤル」「日常系」における「百合要素」などゼロ年代に流行った物語形式が網羅的に取り込まれている、として肯定的に評価した。


しかし違和感が残る。様々な形式をたし合わせればよりよい作品になるというものではない。むしろ様々な形式が取り入れられているからこそ、かえって全体としての魅力が失われてしまうということもある。このような作品に光を与えるためには、批評的な視点が不可欠である。さて、本作品には批評的な視点が含まれていたのだろうか。


冒頭の宇野氏の発言を受けて、美術家の黒瀬陽平氏は本作品が「ゼロ年代深夜アニメの総決算」であることには同意しつつもそこでまとめられなかったものの可能性を示唆する。さらに、氏は本作品を「閉じた表現の合わせ鏡の中に閉じ込められている」とし、厳しい評価を下す。


これに対し、文芸評論家の坂上秋生氏は本作品を「かなり新しいことに」チャレンジしているとし、肯定的に評価する。氏は、「萌えキャラを4人配置する「空気系」のような作品でも物語とバトルを加えればアップデートができて、しかもそれで客を十分につかめるということを証明した」と語った。


また、宇野氏は「ゼロ年代アニメはシステムに干渉できないという絶望を描いていて、だからゲームをプレイするしかなかったり、ミニマムな関係に閉じるしかなかった。」が、まどマギは終わりなき日常を生み出しているシステムとしてのキュウベエと関係を回復している話だとし、本作品に現れている「回復されたシステムへの干渉可能性」を指摘した。