ゼロ想一章

新世紀エヴァンゲリオン』に見られる「古い想像力」


「古い想像力」には2つの際立った特徴がある。


ひとつめは「引きこもり・心理主義」である。行為「する・した」による社会的自己実現ではなく、設定「である・でない」による自己像の承認にアイデンティティの確立を委ねるあり方。平成不況の長期化、サリン事件に象徴される社会不安による1995年前後の社会的自己実現への信頼低下を背景とする。エヴァに乗ることを拒否したシンジは使徒を倒す自分ではなく、ありのままの自分を認めて欲しいという想像力を表現している。


もうひとつは「〜しない」という倫理である。他者と関わりをもち社会と接触すれば、必然的に誰かを傷つけ自分も傷つくので、誰も傷つけないために他者と関わりをもたず社会とも接触しないという倫理。他者に対して何かを「する」のではなく何も「しない」ことこそが、責任ある態度だと考えられる。父親に従い、エヴァを操縦した結果、友人であるカオル君を殺してしまうシンジは何かをすれば誰かを傷つけるということに気づき、その後、エヴァを操縦しなくなる。


DEATHNOTE』に見られる「新しい想像力」


9・11アメリ同時多発テロ、小泉構造改革による格差意識の浸透により、「戦わなければ、生き残れない」という「サヴァイヴ感」ともいうべき感覚が社会に広く共有される。この状況においては、戦わないという選択肢はありえない。戦わないということは敗北を意味するからである。


生き残るためには、「たとえ誰かを傷つけても」行動しなければならない。この「サヴァイブ感」とその対処法としての「決断主義」を体現した作品が『DEATHNOTE』である。主人公の夜神月は社会をまったく信用しておらず、何もしないという選択をする碇シンジと異なり、自分の力で社会を作り替えることしか考えていない決断主義者なのである。


本作品の主題は、決断主義の克服である。言い換えれば、「夜神月を止めるにはどうしたらいいのか」という問題である。碇シンジでは夜神月は止められない、何もしないという倫理では生き残れないし、夜神月の暴力を防ぐこともできないのだ。では私たちはこの決断主義の暴力にどう向き合っていけばいいのだろうか。


ポストエヴァンゲリオン症候群としてのセカイ系


セカイ系とは、主人公やヒロインの自意識が社会を媒介することなく世界の運命と直結するような作品群のことである。代表作としては『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』が有名である。自分の世界は自分の周りにいる人間のだけで完結しており、それ以外の他人は背景に過ぎない。このような現代の若者の想像力を捉えた作品群がセカイ系と呼ばれている。


『ゼロ想』から引用しよう。「地下鉄サリン事件のような「まるでマンガみたいな」事件が起こり・・・「世の中がおかしい」という感覚は、若者の社会的自己実現への信頼を減退させ、かわりに自己像=キャラクター設定への承認を求める・・・そんな気分の反映こそが、信頼できなくなった「社会」・・・といった中間項を抜きに、「自己の内面」と「世界」が直結するセカイ系だという」社会的自己実現への信頼低下が若者の自意識から社会を排除しているというわけだ。


『ゼロ想』が出版されたのは2008年である。当時、東浩紀セカイ系を「新しい想像力」としていたがこれは東はセカイ系からサヴァイブ系への以降を見逃していたためである。